西暦 | 和暦 | 記事 |
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弥生中期 | 前100 | 寺本の谷の弥生集落(法海寺遺跡・野埼遺跡) |
宣化3年 | 538 | 仏教公伝(日本書記は552年) |
607 | 聖徳太子、法隆寺を創建 | |
天智7年 | 668 | 新羅の僧道行法師が、熱田の宮のご神体「草薙劔」を盗み出そうとして失敗 帰国を断念して当地の清水の岡(現在の八幡平井)に堂宇を営む |
法海寺創建 法海寺の開基は、新羅国明信王の太子とされる道行法師、開山勤尊和尚(9年住職)、二代勤操和尚(13年住職)、三代弘法大師(10年住職) 天智天皇の御不豫を当山薬師如来に祈願して平癒した功により、「薬王山法海寺」の勅額と寺田280町歩を賜る 天智7年8月3日 |
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天智天皇7年 ~天長10年 |
668 ~833 |
以下の天皇十三代にわたり勅願寺として堂宇壮観、内外十二院があったと伝えられている 天智(称制661~668、在位668~671)・天武(673~686)・持統(690~697) 文武(697~707)・元明(707~715)・[元正(715~724)]・聖武(724~749) 孝謙(749~758)・[淳仁(758~764)]・淡路廃帝・称徳(764~770) [光仁(770~781)]・桓武(781~806)・平城(806~809)・嵯峨(809~823) 淳和(823~833) (注)( )内数字は在位年、[ ]内は儀軌に記述なし、孝謙と称徳は同一人物 |
朱鳥元年 | 686 | 草薙劔は盗難事件の発生後宮中に保管されていたが、天武天皇のこの年に熱田の宮に返還、このときの祭事が「酔笑人(えようど)神事」として現在も伝承 |
和銅5年 | 712 | 「古事記」太安万呂により撰上 |
養老4年 | 720 | 「日本書紀」舎人親王らにより撰上 法海寺の開基である道行法師が「日本書紀」巻二七の天智天皇七年の条につながっている そこには、「沙門道行、草薙劔を盗みて新羅に逃げ向く、而して中路に雨風にあいて、荒迷ひて歸る」と道行の名前が登場している |
神護景雲元年 | 767 | 天台宗の開祖「最澄」誕生 |
延暦4年 | 785 | 最澄、比叡山に入る |
延暦7年 | 788 | 「最澄」比叡山に一乗止観院(後の延暦寺)を造立 |
延暦23年 | 804 | 「最澄」遣唐使として唐へ渡り、中国天台宗の奥義を修める |
延暦24年 | 805 | 「最澄」日本天台宗開宗 |
弘仁13年 | 822 | 「最澄」没(56歳)、比叡山大乗戒壇が嵯峨天皇により勅許 |
弘仁14年 | 823 | 比叡山の一乗止観院を勅賜により、「比叡山延暦寺」とする |
応徳~養和 | 1086~1182 | 市指定文化財制作年代『毘沙門天立像』 |
寿永~元弘 | 1082~1333 | 市指定文化財 『密教仏具』『阿弥陀三尊像(吉祥院)』『不動明王立像(常光院)』 制作年代 『普賢菩薩坐像』『阿弥陀三尊像の阿弥陀如来像(大乗院)』 |
建武~元中 | 1334~1391 | 市指定文化財制作年代 |
元徳~康応 | 1329~1389 | 『諸尊集会図』 『阿弥陀三尊像の観音・勢至菩薩像(大乗院)』 |
明徳~天正 | 1390~1573 | 県・市指定 『涅槃像』『金剛界及び胎蔵界曼荼羅』『紅頗黎色阿弥陀如来図』 文化財制作年代 『釈迦十六善神像』『不動明王八大童子図』『山王本地仏曼荼羅』 |
応永3年 | 1396 | 法海寺という名前の記録上の初見 佐布里字地蔵脇の雨宝山如意寺所蔵大般若経第六百巻奥書 「於尾州智多郡額石保法海寺理性房書写畢禿筆金剛資定叡」 応永3年12月15日 |
文安元年 | 1444 | 「薬王山法海寺儀軌」著作 文安元年六月 日 大願主薬王山法海寺内寶憧坊住僧権大僧能慶 |
慶長~慶応 | 1596~1868 | 市指定文化財 『御深井焼大花瓶』『御深井焼香炉』『鰐口(慶長十六年)』 制作年代 『法海寺仁王門』 |
慶長5年 | 1600 | 九鬼氏焼き討ちにより一山焼失 以下、岩田愨太郎 著述「寺本法海寺の建築及須弥壇について」より引用 府志の法海寺の條に「・・・其餘什宝不少慶長五年九鬼大隅守嘉隆侵略縦火悉為烏有」とある如く、岩屋寺、大御堂寺等と共に、表知多一面の戦火を蒙っているのであるから、現存遺構(昭和18年当時)はすべて慶長五年以降のものと看做して差支えなかろう。 同寺所蔵の曼陀羅の修復名-中略-となっているのであるから、現存本堂は尠くとも慶長五年以降慶長十五年乃至十八年迄の再建とみて間違いなかろう。 |
慶長12年 | 1607 | 大橋氏、法海寺に十王堂を建立 |
慶長16年 | 1611 | 鰐口寄進 「奉寄進劦智多郡薬王山法海寺鰐口本願寺本平井村偏中敬白」「慶長16季亥辛九月八日隣郷施主等」 慶長16年9月8日 |
慶長18年 | 1613 | 本堂に奉納の牛若と弁慶絵馬 慶長18年癸丑卯月3日 |
元和3年 | 1617 | 工藤、俣野の角力の絵馬 元和3年丁巳二月吉祥日 |
寛文6年 ~9年 |
1666~1669 | 現在、境内の堂字の中で江戸時代の建物は仁王門のみである。仁王門の建立年代は、斗供、虹梁などの絵様の様式から判断して17世紀中頃のものとみられていたが、仁王像の制作年代を示す木札に「(表)上宮伝太子宗流七拾二世 攝州四天王寺 藤原大佛師法橋 国見大新□長誉宗伝(裏)丙寛文六年 次男大彿国見左近 午九月吉日 京誉康盛造立」とあり、さらに平成22年の修理により大斗から「寛文六年之比より奉加仕候而建立 仕候同九年七月より取掛申候 大乗院法印叡運七十九弟子源祐□□ 吉祥院法印源栄四十六弟子鎮栄廿 常光院 祐海三十一」、木鼻から「二王門 寛文九己酉天七月初頃より 作事」とする墨書が発見されたことから、寛文6(1666)年から同9(1669)年頃にかけて造営されたことが判明した。 |
天和元年 | 1681 | 御深井焼大花瓶寄進 尾張藩主12代目光友公 年号は「八幡の語り草」144話「御深井焼大花瓶と虫供養組」の記述を採用したが、知多市誌資料編二(P381)には次のように記されている。『寛文12(1672)年に、それまで光義と称していたのを光友と改めているので、寺本組が拝領したのは寛文12年以後であり、隠居して国元へ帰り大曽根の下屋敷に居住したころと推定すれば元禄6(1693)年以降のことになる。』 |
享保15年 | 1730 | 仁王門屋根葺き替え、東妻面の肘木に墨書 享保15年3月22 |
寛政11年 | 1799 | 知多郡西浦十四ヶ村供養由来 著作 寛政11年11月吉日 |
天保年間 | 1830~1843 | 尾張名所圖會編纂 巻之六に法海寺全景俯瞰図と説明が掲載 |
文政5年 | 1822 | 仁王門東面柱修理時期・屋根葺き替え、巻斗・大斗に墨書 文政5年11月3日 |
明治9年 | 1976 | 知多郡西浦十四ヶ村供養解散 |
明治22年 | 1889 | 内務省から金百圓下賜 明治22年1月7日 |
大正3年 | 1914 | 大正3年7月8日鐙瓦掘り出し 八幡字月山 濱岡佐一郎氏所蔵 鐙瓦の文様は、十字花形と雙葉形の変化したものと思われ、その系統は遠く中国の唐時代まで遡らしめ得るもので、朝鮮の高句麗時代の遺瓦の文様の系統に属するものであると考える。この法海寺遺瓦の時代は同寺心礎と同時代すなわち奈良時代であると思う。(坂 重吉 著から引用) |
大正15年 | 1926 |
本堂屋根葺替大修理、仁王門屋根葺替修繕、愛染堂修繕 大正15年11月1日 |
昭和18年 | 1943 | 名古屋郷土研究会実地踏査(後に名古屋郷土文化会に改称) 「尾張の遺跡と遺物」52号に調査成果を特集掲載 |
昭和24年 | 1949 | 知多市の寺本、東海市の清水・姫島とで虫供養復活 寺本地区は常光院、清水地区は清水寺、姫島地区は玄猷寺の三地区持ち回り 西浦十四ヶ村から受け継いだ掛軸、大勢至菩薩(寺本)・阿弥陀如来(清水)・観世音菩薩(姫島)を持ち寄る |
昭和30年 | 1955 | 名古屋郷土文化会会員30余名宝物見学 昭和30年2月20日 八幡町史編纂委員会による研究が始まる。 |
昭和32年 | 1957 | 仁王像大修理 昭和32年10月 杉崎が指導していた横須賀中学校郷土クラブによる調査では、常光院の入口に近い地点で良好な瓦溜1個所を検出した。 |
昭和33年 | 1958 | 当時、国立奈良博物館長をしておられた石田茂作博士のご来駕をねがい、法海寺につたわる宝物の査定をもとめ、とくに古仏画についての精密な鑑定をしていただいた。その当時、愛知県文化財保護委員をかねておられた石田博士は、その中の数点を県指定文化財と同程度の価値あるものと評価された。 |
昭和34年 | 1959 | 『涅槃像』『金剛界及び胎蔵界曼茶羅図』(法海寺) 昭和34年1月16日県文化財指定 『紅頗黎色阿弥陀如来像』(法海寺) 昭和34年10月8日県文化財指定 |
昭和48年 | 1973 | 八幡福祉会館建設予定地の発掘調査開始 昭和48年11月3日 |
昭和50年 | 1975 | 仁王門塗装 昭和50年6月 |
昭和51年 | 1976 | 『御深井焼大花瓶』(法海寺) 昭和51年2月20日市文化財指定 |
昭和53年 | 1978 | 『密教仏具』『鰐口』『御深井焼香炉』(法海寺) 昭和53年11月10日市文化財指定 |
昭和54年 | 1979 | 八幡福祉会館建設予定地の発掘調査報告書「法海寺遺跡」(知多市文化財報告 第15集)発行 昭和54年3月28日 |
昭和57年 | 1982 | 法善堂・十王堂落慶法要 昭和57年2月28日 |
昭和62年 | 1987 | 本堂屋根互修理、仁王門破風軒瓦修理 昭和62年12月 |
平成3年 | 1991 | 八幡字平井19番地に所在する、弥生・古墳時代の遺物散布地・貝塚及び古代寺院址の発掘調査、弥生時代の人骨3体発掘 平成3年11月4日~12月1日 |
平成4年 | 1992 | 本堂解体・新築 平成4年11月8日落慶 |
平成5年 | 1993 | 八幡字平井19番地に所在する、弥生・古墳時代の遺物散布地・貝塚及び古代寺院址の発掘調査報告書「法海寺遺跡Ⅱ」(知多市文化財報告 第31集)発行 平成5年8月1日発行 法海寺発掘出土品展 平成5年8月1日~8月30日 |
平成10年 | 1998 | 『諸尊集会図』『釈迦十六善神像』『不動明王八大童子図』『山王本地仏曼陀羅』 (法海寺) 平成10年3月5日市文化財指定 |
平成12年 | 2000 | 『阿弥陀三尊像』(吉祥院)『阿弥陀三尊像』(大乗院) 『不動明王立像』(常光院)『普賢菩薩坐像』(法海寺) 平成12年3月9日市文化財指定 知多市文化財展 平成12年10月20日~12月3日 |
平成15年 | 2003 | 法海寺の文化財展 平成15年9月20日~10月19日 岡崎市美術博物館 天台のほとけ ―その美術と三河の歴史― 紅頗黎色阿弥陀如来図・山王本地仏曼荼羅・密教仏具出品 平成15年10月25日~12月14日 |
平成18年 | 2006 | 『毘沙門天立像』(法海寺) 平成18年3月1日市文化財指定 名古屋市博物館 天台宗開宗1200年記念企画展 比叡山と東海の至宝―天台美術の精華― 金剛界及び胎蔵界曼荼羅・紅頗黎色阿弥陀如来図・諸尊集会図・密教仏具・山王本地仏曼荼羅出品 平成18年10月21日~12月3日 |
平成19年 | 2007 | 知多に伝わる信仰仏展 平成19年10月20日~12月2日 |
平成20年 | 2008 | 『仁王門』(法海寺) 平成20年12月15日市文化財指定 |
平成22年 | 2010 | 仁王門・仁王尊像全解体保存修理 平成22年3月8日落慶 八幡の文化財展 平成22年7月24日~8月29日 |
平成26年 | 2014 | 知多市の寺院・神社に眠る美術工芸品展 平成26年7月19日~8月31日 |
平成27年 | 2015 | 護摩堂建立 平成27年3月26日落慶 喜笑龍(きしょうりゅう)本堂前に設置 平成27年盆 |
平成28年 | 2016 | 安城市歴史博物館 聖徳太子絵伝模写完成記念特別展「まねる うつす つたえる」 涅槃像出品 平成28年9月24日~11月6日 |
平成29年 | 2017 | 法海寺創建1350年記念事業(八幡まちづくりセンター文化祭) ―法海寺大百科展― 開催 平成29年11月4・5日 八幡まちづくりセンター文化祭参加記録「法海寺大百科展」発行 平成29年11月30日 |
平成30年 | 2018 | 法海寺展開催(知多市歴史民俗博物館) 創建1350年記念祭 平成30年11月11日開催 |
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本堂再建
慶長5(1600)年に九鬼氏の焼き討ちにより焼失した本堂は、それ以降慶長15(1610)年~18(1613)年に再建されたようである。昭和50(1975)年の右の写真では老朽化が著しく、平成4(1992)年に全解体して再建された。
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仁王門・仁王尊像修復
仁王門・仁王尊像は寛文6(1666)年の建立から350年余の風雪に耐えてきたため損傷が著しく平成21(2009)年4月から全解体。一部古材を流用し再度組み立てられ平成22(2010)年3月8日に落慶法要が行われました。
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護摩堂建立
開祖最澄の誕生以前に創建された知多半島屈指の古刹でありながら、本格的な護摩堂が無く、 天台宗においては欠くことのできない重要な護摩法要を総本山の正式な行法に則って執り行うことが悲願でした。
平成25(2013)年4月から着工し、平成27(2015)年3月26日に落慶法要が執り行われました。- 趣意書
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創建1350年記念祭
平成30(2018)年に創建1350年を迎えた法海寺。これに合わせ記念事業がおこなわれました。
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