「寺本(八幡)のオヤクッサン」と呼ばれ皆様に尊び親しまれている薬王山法海寺は、薬師如来を御本尊に祀り、現世利益を祈願する天台宗の古刹であり、日本三薬師[奈良 法隆寺 (一説には、信州 諏訪大社 本地仏)、三河 鳳来寺及び寺本 法海寺]の一つとされている。
法海寺の開基は、新羅国明信王(しらぎのくにめいしんのう)の太子の道行法師といわれ、
由緒は「日本書紀」巻27の天智天皇7年の条につながっている。
そこには、「沙門道行、草薙劔を盗みて新羅に逃げ向く、而して中路に雨風にあいて、荒迷ひて歸る」と道行の名前が登場している。
後世に編纂された寺伝の「薬王山法海寺儀軌」によれば、この後、この沙門道行は帰国を断念し当地に堂宇をいとなんでいた。
そして、天智天皇の御不例を当山御本尊に祈願して平癒した功によって、「薬王山法海寺」の勅額と寺田280町歩を賜った。
時に、天智7(668)年、8月3日の創建とされ、以降、淳和(じゅんな)天皇に至る13代の勅願寺として堂宇壮観、内外12院があったと伝えられている。1300有余年の歴史を裏付ける有力な事象が、その信憑性を物語っている。
郷土の貴重な文化遺産を保護し後世へ継承するため、現在の本堂は平成4年に再建、仁王門と仁王尊像は平成22年に、全面的に解体したのち修復復元された。
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草薙劔の行方
盗難後宮中に保管されていたが、天武天皇朱鳥元(686)年に熱田の宮に返還、このときの祭事が「酔笑人神事(えようどしんじ)」として現在も伝承
酔笑人神事.pdf -
時代考証
白鳳期の蓮華文瓦が境内から出土
2000年以上昔の仰臥伸展葬の人骨3体を境内から発掘 -
寺宝文化財
平安・鎌倉・室町期などの県・市指定文化財17点保有仁王門、毘沙門天像を除いて、知多市歴史民俗博物館に寄託
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年中行事
修正会(1月3日)、薬師大祭(11月8日)、除夜薬師大護摩(12月31日)が古式に則り伝承
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創建当時の伽藍配置
天智7(668)年、8月3日の創建とされ、以降、淳和天皇に至る13代の勅願寺として堂宇壮観、内外12院があったと伝えられている。
伽藍配置.pdf -
尾張名所図絵
江戸時代 天保年間に出版され尾張の名勝、風俗、名産、神社仏閣などを紹介した地誌。 巻6の知多群の中に法海寺も掲載されている。
尾張名所図絵.pdf
「薬王山法海寺儀軌」(以下、儀軌という)には、法海寺の創建にまつわる詳細が記述されている。
当寺の開基とされる道行法師が熱田神宮から草薙の劒を盗み去ろうとして失敗したのち、この地に堂宇を構え天皇のご不例を平癒した功績により、天智天皇七(668)年の創建以降13代の勅願寺として隆盛を極めたことが記されている。
儀軌が著作された文安元(1444)年は、創建から実に776年の歳月が経過している。内容の真偽を推し量る術はなくても、悠久の昔から人々に伝承されてきた事実を厳粛に受け止め、法海寺の由緒には欠かせない貴重な資料を次の世代に引き継がねばならない。
上の図は法海寺から出される護符です。毎年、正月三日の修正会(しゅしょうえ)で祈祷し、八幡全家庭に配付されます。一年間の厄除けのおまじないとして、家々の入り口に貼るといった、昔からの風習が現在も受け継がれています。
牛 王(ごおう)
法海寺(ほうかいじ)
寶 命(ほうみょう)
【護符・御符・御封】ご‐ふ
(ゴフウとも)神仏が加護して種々の厄難から逃れさせるという札。紙に真言密呪や神仏の名・像などを書いたもので、肌身につけ、また、飲んだり、壁に貼りつけたりしておく。まもりふだ。護身符。護摩札。おふだ。
【修正会】しゅしょう‐え
寺院で、正月元日から三日間あるいは七日間、国家の隆昌を祈る法会。日本では神護景雲元(767)年に始まるという。
【牛王宝印】ごおう‐ほういん
熊野三社・手向山(たむけやま)八幡宮・京都八坂神社・高野山・東大寺・東寺・法隆寺などから出す「牛王宝印」「牛玉宝印」などと記した厄除けの護符。
番号 | 指定 | 所蔵 | 文化財名称 | 制作年代 | 文化財指定 |
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1 | 愛知県 | 法海寺 | 『涅槃像』 | 室町時代 | 昭和34年1月16日 |
2 | 愛知県 | 法海寺 | 『金剛界及び胎蔵界曼荼羅』 | 室町時代 | 昭和34年1月16日 |
3 | 愛知県 | 法海寺 | 『紅頗黎色阿弥陀如来図』 | 室町時代 | 昭和34年10月8日 |
4 | 知多市 | 法海寺 | 『毘沙門天立像』 | 平安時代 | 平成18年3月1日 |
5 | 知多市 | 法海寺 | 『密教仏具』 | 鎌倉時代 | 昭和53年11月10日 |
6 | 知多市 | 吉祥院 | 『阿弥陀三尊像』 | 鎌倉時代 | 平成12年3月9日 |
7 | 知多市 | 大乗院 | 『阿弥陀』 | 鎌倉時代 | 平成12年3月9日 |
7 | 知多市 | 大乗院 | 『観音・勢至』 | 南北朝時代 | 平成12年3月9日 |
8 | 知多市 | 常光院 | 『不動明王立像』 | 鎌倉時代 | 平成12年3月9日 |
9 | 知多市 | 法海寺 | 『普賢菩薩坐像』 | 鎌倉時代 | 平成12年3月9日 |
10 | 知多市 | 法海寺 | 『諸尊集会図』 | 南北朝時代 | 平成10年3月5日 |
11 | 知多市 | 法海寺 | 『釈迦十六善神像』 | 室町時代 | 平成10年3月5日 |
12 | 知多市 | 法海寺 | 『不動明王八大童子図』 | 室町時代 | 平成10年3月5日 |
13 | 知多市 | 法海寺 | 『山王本地仏曼荼羅』 | 室町時代 | 平成10年3月5日 |
14 | 知多市 | 法海寺 | 『御深井焼大花瓶』 (八幡区所有) |
江戸時代 | 昭和51年2月20日 |
15 | 知多市 | 法海寺 | 『御深井焼香炉』 | 江戸時代 | 昭和53年11月10日 |
16 | 知多市 | 法海寺 | 『鰐口(慶長十六年)』 | 江戸時代 | 昭和53年11月10日 |
17 | 知多市 | 法海寺 | 『法海寺仁王門』 | 江戸時代 | 平成20年12月15日 |
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御深井焼大花瓶
尾張藩2代藩主の徳川光友が横須賀御殿に出向いた時に当地方に3個寄進した内の1つで、寺本付近の虫供養組が保管していたものです。雲形の耳がついた尊式花瓶で、独特の灰青釉が掛かっています。胴部の中央やや下の四方八隅の枠の中に「光友」銘が印判で捺してあります。名古屋城内にあった御深井窯で焼かれたものです。
◇高さ44cm、径36cm ◇江戸時代 -
涅槃像
中央台座上に横臥した釈迦は右腕を曲げて手枕とし、やや頭の方から俯瞰して描いている等鎌倉時代以降の形式です。これを囲んで多くの菩薩、弟子、羅漢、八部衆、国王、大臣以下各階級の民衆と、鳥獣虫魚までが集まって釈迦の死を嘆き悲しんでいます。上方から天上界の摩耶夫人が悲報を聞いて白雲に乗って降下する姿を表しています。
◇縦214cm、横145.5cm ◇絹本着色 軸装 ◇室町時代 -
金剛界曼荼羅
曼荼羅は、真言密教において多くの仏や菩薩を一定の方式に基づいて、整然と描いた図のことで、金剛界と胎蔵界の2つに統合されています。金剛界は仏の破煩悩力を示し、大日如来が智拳印を結び構図が9つに分かれています。胎蔵界は事象の根元を内在の世界に求めたもので、法界定印を結び胎内での出産以前の姿をあらわしています。両者とも形式・描法など海部郡美和町の蓮華寺本と軌を一にしています。
◇縦190.2cm、横115.1cm ◇絹本着色 軸装 ◇室町時代 -
胎蔵界曼茶羅
曼荼羅は、真言密教において多くの仏や菩薩を一定の方式に基づいて、整然と描いた図のことで、金剛界と胎蔵界の2つに統合されています。金剛界は仏の破煩悩力を示し、大日如来が智拳印を結び構図が9つに分かれています。胎蔵界は事象の根元を内在の世界に求めたもので、法界定印を結び胎内での出産以前の姿をあらわしています。両者とも形式・描法など海部郡美和町の蓮華寺本と軌を一にしています。
◇縦190.2cm、横115.1cm ◇絹本着色 軸装 ◇室町時代 -
紅頗黎色阿弥陀如来図
密教では、5つの仏を五方五大五色に配するとき、阿弥陀如来は、西方で火大にあたり赤色で表現されるためこの名がつきました。八葉蓮華の上に五鈷杵を横たえ、杵の上に独鈷を立て、その上に大紅蓮の花を開いて円相の中に、五仏の宝冠をいただき、結伽趺座して定印を組んだ阿弥陀如来が描かれています。
◇縦112cm、横58.5cm ◇絹本着色 軸装 ◇室町時代 -
密教佛具
鎌倉時代中期及び後期の標準的作風で、密教仏具の古い形を示しています。内訳は独鈷杵1、独鈷鈴1、五鈷鈴1、宝珠鈴1、輪宝2、羯磨4、火舎2、花瓶2、六器9、飲食器16、二器1、四けつ4、金ぺい1です。戦国時代の火災で多くの仏具が焼失している中でその一部が現存しているもので、本来の一具のものではありません。
◇13種類、45点 ◇鋳銅鍍金 ◇鎌倉時代 -
鰐口
作者は「名護野之住大工水野猪兵衛家勝同内近清八」です。また「奉寄進尾刕智多郡薬王山法海寺鰐口本願寺本平井村衆偏中敬白」「慶長十六年辛亥九月八日并隣郷施主等」(1611年)の刻字があり、戦国時代に兵火に遭った法海寺の慶長年間の再建を語っています。
◇径40cm、厚さ18cm ◇青銅 ◇江戸時代 -
御深井焼香炉
御深井焼大花瓶と同じく尾張藩2代藩主の徳川光友から寺本付近の虫供養組が受領していたものです。底部には三脚が付いていて、器体の全面に牡丹唐草文様が流れるように貼付され、その上から御深井釉独特の灰青釉がかけられています。
◇高さ14.7cm、径22cm ◇江戸時代 -
諸尊集会図
弥勒菩薩を中心として、向かって右に薬師如来、左に定印の阿弥陀如来という三尊構成を中心に、四方に四天王を配し、その間にいずれも蓮台に坐す小さな菩薩を10体配した類のない図です。延徳3年(1491年)智蔵坊から寄進された旨の裏書があります。
◇縦105.9cm、横70.2cm ◇絹本着色 軸装 ◇南北朝時代 -
釈迦十六善神図
十六善神は8体ずつ相称して置かれ、神将形もしくは鬼神形であらわされています。この中で深沙大将は『般若経』の守護神であり、玄奘三蔵は『般若経』を中国に請来・翻訳したことで知られます。室町時代に制作され、江戸時代に数度の修理を経ています。
◇縦134.0cm、横72.8cm ◇絹本着色 軸装 ◇室町時代 -
不動明八大童子図
不動明王とは大日如来が一切の悪魔を降伏させるために化身して忿怒身となったもので、大火焔の中にあって諸難や汚れを焼き払い衆生を救う仏です。画面中央の岩座上に結跏趺坐して、右手に剣、左手に羂索を持っています。周囲に八大童子を従え、剣を飲み込むように倶梨迦羅龍が剣にからみつき、その間に一筋の滝が描かれています。
◇縦121.0cm、横73.8cm ◇絹本着色 軸装 ◇室町時代 -
山王本地仏曼茶羅
画面全体を社殿とし、その内陣に日吉山王社の本地仏を描く曼荼羅です。釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来・千手観音・十一面観音・地蔵菩薩・普賢菩薩が描かれ、画面上方には北斗七星と九曜星が小さく描かれています。北斗七星を描く場合、本地仏と合わせて描かれる例はなく、さらに九曜星を加えている点が特徴的です。
◇縦88.0cm、横36.4cm ◇絹本着色 軸装 ◇室町時代 -
普賢菩薩坐像
胸前で合掌し、右足を上に結跏趺坐し、象の上に乗っています。小像ながらも鎌倉時代の本格的な寄木造の構造を持っていて、頭、体、脚部等の調和が取れ、堂々とした像容です。象と蓮台は江戸時代のものです。
◇高さ31.6cm ◇桧材 寄木造 ◇鎌倉時代 -
毘沙門天立像
左手は肩近くの高さに宝塔を捧げもち、右手は高く掲げて戟をにぎり、右膝を少し曲げて邪鬼の上に立ち、やや左方を向いて立つ毘沙門天立像です。現状は江戸時代の厚い彩色に覆われていて、当初の造形を詳しく把握することはできませんが、一部、彩色が剥落した部分などを見ると、入念で行き届いた彫りが施されていたことがわかります。像全体のバランスの良さやゆるやかな山形の宝髻、天冠台の形状などから、平安時代後期の本格的な造像によるものと推定されます。
◇高さ172cm ◇木造 ◇平安時代 -
常光院 不動明王立像
下半身に裳をつけ条帛を左肩から着て、右肘を曲げ腰の位置で剣を持ち、左手は垂らして羂索を握り、足を少し広げ、腰の部分で体を左にひねって立っています。頭部は巻毛で辮髪とし、頭頂に蓮台を載せています。全体に彫りは繊細で行き届いていて、表情は憤怒の表現が控えられて穏やかになっています。
◇高さ50.4cm ◇木造 彩色 ◇鎌倉時代 -
大乗院 阿弥陀三尊像
中尊の阿弥陀如来は、左足をわずかに前に出して来迎印を結んで少し前傾姿勢で立っています。顔はやや四角張って表され、目鼻は小ぶりで目も細く、衣文は線条的ながら入念な彫りが施されています。蓮台を手に捧げもつ観音菩薩と、脇侍の合掌している勢至菩薩で、両像とも腰をかがめた前屈みの姿勢で表されています。台座、光背は3尊とも江戸時代の作です。
◇高さ64.8cm(阿弥陀) 42.5cm(観音) 43.0cm(勢至) ◇寄木造 古色 ◇鎌倉時代(阿弥陀)、南北朝時代(観音、勢至) -
吉祥院 阿弥陀三尊像
阿弥陀如来はほぼ直立し、頭部・頭髪は小振りで、目鼻立ちも控えめで、なで肩です。衣文は線的ながら下半身に流れるようにして脚部において省略するという平安時代の技法が用いられています。蓮台を手に捧げもつ観音菩薩と脇侍の合掌している勢至菩薩は前屈みの姿勢で表され、裙の端部の翻りを大きく表していて、来迎時に前からの風を受けているように表現されています。
◇高さ54.6cm(阿弥陀) 31.2cm(観音) 31.6cm(勢至) ◇寄木造 漆箔 ◇鎌倉時代 -
法海寺仁王門
仁王門は寛文6年(1666年)の建立と伝わっており、軸部などの木柄が太く、伝統的な技法を用いた正統的な門です。門は八脚門で、南を正面とした仁王像を正面側東西に祀っています。
◇建築面積71.5㎡ ◇切妻造、本瓦葺、八脚門 ◇江戸時代
法海寺遺跡の発掘は境内の建物建設や建て替え等の際にこれまで数回行われてきた。このような発掘調査により人骨や土器が発見され法海寺の創建が白鳳時代に遡ることや古くは弥生時代から人が生活していたことが明らかになった。
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昭和48年発掘調査の写真1
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昭和48年発掘調査の写真2
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昭和48年発掘調査の写真3
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平成3年発掘調査の写真1
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平成3年発掘調査の写真2
発掘資料
「八幡の語り草」制作に向けての取り組みは昭和57年2月に16名の編集委員会でスタートし、翌年の昭和58年11月3日に発行された。「話題となる事柄。話のたね」を意味する「語り種」(広辞苑第六版より引用)をもじったものと思われる。
全158話から成っており、法海寺に関する短編5話を紹介する。